序章 論理的思考のメリット

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◇ 文学中心の国語教育とはどういったものか?

文学を中心とする国語教育とは具体的にどういったものなのかを説明します。

高校の国語の教科書に出口裕弘先生の「ペンギンが喧嘩(けんか)した日」という作品が掲載されています。この作品は、作者が動物園に出かけていろいろな動物たちを観察して感想をつづったあと、結びで「動物園は、やはり、魔の園だ」と締めくくります。

授業の課題は、この「魔の園」という言葉の意味を推察しなさいというものです。正解を得るためには、文の最初に戻って作者が羅列した感想を作者の気持ちを推察しながらじっくりと読み返す必要があります。

作者は、動物達を観察したときの感想をこう書いています(一部抜粋)。

動物園は、原理からして、「おもしろうてやがて悲しき」場所である。小鳥一羽といえども、おりに閉じ込められて喜んでいる生き物はいない。アフリカから、北極・南極の海から、アジア大陸の奥地から、北米から、南米から、人間によって拉致されてきた野生の鳥獣たちが、おりの中で日々の生活を営まされている。つまりここは、不自由の王国なのだ。オランウータンのような高度な知能を持つ獣まで、ここには幽閉されている。ガラス越しにオランウータンの目をじっと見ていると。絶望し切った優しい視線が、既に憎悪を超えて、人間への哀れみを宿しているようにさえ思われてくる。

ほかにも作者は、ペンギンの群れで起きた喧嘩について「それは死闘」だと書きつづっています。

さて回答例ですが、「おりに閉じ込められたオランウータンの絶望、人間の利己的な行為、一見して可愛げなペンギンが日々繰り広げている死闘、そういった物事が『魔』という言葉に込められている」と解釈すれば合格です。

しかし、文学作品を読むときにはこれで良いのですが、“論じる文章”の読み方としては適切ではありません。もしこの作品が“論じる文章”だとしたら、読み手は主張の結論が正しいかどうかを分析するだけでよいのであって、作者が書いていないことをあれこれ想像する責任まではありません。また、勝手に想像した解釈に納得してしまっても前のページで説明したような誤解の原因になりますし、その解釈をもとに意見を述べるのは(無自覚的な)ダミー論証」の原因になりかねません。

また、この作品を“論じる文章”として書く場合は、作者は読み手が想像力を働かせなければならない余地を極力なくして、「魔の園」という言葉の定義(意味)や、なぜ動物園が「魔の園」だと思ったのかの具体的な根拠を余すことなく書き連ねるべきなのです。なぜならば、文学的な書き方をすると次のような問題が起きるためです。

1.読み手に対して言葉の定義や根拠を推察する負担を強いてしまう。

2.読み手が推察した解釈が書き手の意図と一致するとは限らない。

3.最後の結論を読んだあと、最初に戻って根拠の部分を読み直さなければならないため、読み手に負担を強いてしまう。


こういった特徴のある文は“論じる文章”としては悪文です。(もちろん、文学の手法としては妥当で、“論じる文章”に転用するのはよくないという趣旨です

そして、読み手がこの作品を“論じる文章”として分析した場合の回答は、「作者は文中で『魔の園』という言葉を定義していません。ゆえに、『魔の園』は意味不明の言葉です」となるはずなのです。文学教育に慣れた人にとっては、この回答ではいかにも読解力が低いように思われるかもしれませんが、誤解を防ぎ、レトリック(意味のない修飾的な言葉)に惑わされないようにするためにはこのほうがよいのです。

言葉が定義されていないことや、根拠が不足していることを見抜く力も読解力のひとつです。

ちなみに、今レトリックという言葉が出てきましたが、詭弁の一種に「感情が充填された語」というのがあります。これは「内容のない感情的な言葉」を駆使して読み手が受ける印象を操作する方法です(詳細はリンク先)。

関連サイト
(議論テク)大衆論法:無意味長文 - 名言と愚行に関するウィキ
簡潔に書けないのは頭が悪い証拠 - 名言と愚行に関するウィキ

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目次
◇ 考えを表現する能力は、考えの中身そのものと同じくらいに重要
◇ 「小説」の書き方と、「論じる文章」の書き方は異なる
◇ 文学中心の国語教育とはどういったものか?
◇ 論理的な会話の例
◇ 三段階の議論力
◇ 論理的思考のメリット
◇ よく見る掲示板荒らしについての考察


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